『潮が舞い子が舞い』の話なんですけど。
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— 阿部共実 (@ab_t) 2024年8月20日
現在、チャンピオンクロスにて110話無料公開中です。
今回の無料キャンペーンで初めて読んだんですけど、これがなかなか面白い漫画でした。
— vnsg (@abgame12345) 2023年8月3日
1番の感想として、『潮が舞い子が舞い』を読まずに@abgame12345さんの漫画を読んでたので、滅茶苦茶インスパイアやんけ!ということにようやく気づきました。
(※追記 2024/08/26
コメントの咲野様より情報提供 阿部共実先生本人らしいです藁)
ちなみにわたしは狐塚さんが滅茶苦茶好きです。
2人でつるんでるギャルの、目付きが悪くてスレンダーな方の女がレズビアンだと滅茶苦茶熱いからな(狐塚さんがレズビアンであるという描写は1つもない)。
こういう流れで言うと誤解を招くのですが、わたしは『潮が舞い子が舞い』は同性愛を主軸とした百合漫画として捉えることが可能な作品だと思っています(狐塚×犀賀の話ではない)。
その捉え方が正しいかはともかく、そう捉えようという姿勢が肯定される作品構造だと考えています。
ネタバレを滅茶苦茶含みますので、とりあえず『潮が舞い子が舞い』を読んでください。
①109話という真髄
個人的に『潮が舞い子が舞い』の真髄が109話だと思ってます。最終話の1つ前の話。これが1番好きなオタク絶対にいっぱいいるだろ。
この話は要約すると、水木くんが犀賀さんを後ろに乗せて、自転車で2人乗りする話です。
この話の中で、不意に犀賀さんは水木くんの背中に文字を書きます。
問題。私は今背中になんて書いたでしょーか
えー? アホ?
せいかーい
ひでえ。2文字っぽいからすぐわかったわ
水木はあほー
以上。
特別なやり取りでもなければ、上記会話に注釈もモノローグも挟まりません。
ありふれた会話劇でしかないのですが、ここに読者の解釈を付け足すと、途端にこの場面は叙情的になります。
それは犀賀さんは水木くんに片思いしているのではないか?という解釈。
作中で言語化されることは1度もないのですが、犀賀さんが誰かに片思いをしているかのように印象づけられる描写が1コマだけあります。
『潮が舞い子が舞い』55話より
この1コマだけ。
この1コマだけで犀賀さんが片思いしているとは限らないし、ましてやその相手が水木くんであるかは誰にも分かりません。
なんなら犀賀さんは男子の誰に対してでも優しいですし、宇佐くんにやたらスキンシップが激しい描写が多くあります。
犀賀って絶対俺のこと好きだよな……
こんなの宇佐くんに片思いしててもおかしくないじゃないですか。
ですが大半の読者は、犀賀さんは水木くんに片思いしていると考えているはずです。読んだ人には分かると思いますが、そうとしか考えられない描かれ方が終始されているんですよ。これは阿部共実先生の漫画が滅茶苦茶上手いということです。
そして犀賀さんが片思いしていると仮定しながら読んでいると、途端に犀賀さんが水木くんのことを気にかけているように見えてくる。
1話とかもうまんま言ってるじゃん。
そして上記解釈を踏まえて、109話の背中に文字を書く場面を見返してみると、犀賀さんが背中に書いた「2文字っぽいからすぐわかった」言葉って、アホじゃなくてすきだったんじゃね?ってなってくるんですよ。
おまけにですよ。 これ水木くんも背中に書かれた文字が本当に「アホ」だと思ってたの?ってハナシなんですよ。
犀賀さんが「すき」と書いたことを理解した上で、関係を壊さないように「アホ?」と回答してみせた可能性。水木くんがそういう器用なコミュニケーションが上手い人物であることは作中で印象付けられているので、その可能性が滅茶苦茶ある。
あまつさえ表情が書かれていないのが意味深です。
と、ここまで文字起こししてて思うんですけど、一連の主張が完全に怪文書なんですよね。
1コマで片思いについて言及してたからこの女は片思いしてる!背中にアホじゃなくてすきって書いてる!って、同じコマに映ってたからカップリング!の理論かよ。
これはとても重要なことなのですが、『潮が舞い子が舞い』はキャラクター同士の関係性のエビデンスがあまりにも乏しい漫画です。
しかし再三言う通り、解釈は絶対に間違ってないと確信が持ててしまう。
Xで「潮が舞い子が舞い 109話」で検索しても同様の解釈が多く見受けられました。明確な根拠はたった1コマなのに、不思議なことにそういう解釈を確信してしまうんですよね。
②百合漫画として読む
ここからが本題となってきます。
上記胡乱な109話の読み方が通るなら、『潮が舞い子が舞い』は同性愛描写を含む百合漫画として読むことも可能ではないか? ということです。
当然対象は
真鈴バーグマンと百々瀬です。やっぱりこの2人の関係はイカつい解釈抜きにして魅力的ですよね。
2人の関係については109話の解釈と同じく、同性愛として文字起こしされている場面は1つもありません。
ですが親しい仲であることは何度も描写をされているわけじゃないですか。その中に同性愛と取れる描写は本当に1つも無いですか?
この漫画では女同士が腕を組んだり抱きついたりとやたら距離が近いのですが、わざわざ女同士で抱きつくことに言及している場面は上記1コマしかありません。
百々瀬と一緒にいると真鈴バーグマンが「あんな顔」をするのは何故ですか?
今まで関係性を言葉で定義付けしなかった2人が、最終話で「友達」という言葉で関係性を定義づけてパッケージ化したのは何故ですか?
2人は本当に友達ですか? あるいは、友達だったんですか? それとも友達になろうとしているんですか? 終わりは始まりとも言うんですか?
要するに、わたしの主張してみる解釈はこうです。
『潮が舞い子が舞い』は真鈴バーグマンと百々瀬が恋仲を経て友達に戻るまでの話、もしくは真鈴バーグマンの告白の返事が返ってくるまでの話なのでは? ということ。
この百合漫画的解釈が怪文書だと思いますか? それは何故ですか? 上記百合漫画的解釈と109話の解釈は、どれだけエビデンスに差異があると思いますか?
わたしはこの2つの解釈に、それほど大きな差異があるとは思えません。水木くんと犀賀さん、真鈴バーグマンと百々瀬、それぞれの関係性の言語におけるエビデンスはあまりにも乏しいんですよね。
ここが『潮が舞い子が舞い』の面白いところなのですが、この漫画のテキスト量は滅茶苦茶膨大です。しかしテキストのほとんどは各キャラクターの人生(ストーリー)にとって無意味であり、恐らくクリティカルなことは1つも言葉に起こされていません。ガチで無駄なことばっかり書いてある(悪口でわない)
だから言葉通りに読み解けば謎の同性愛文脈百合漫画が生まれてしまい、言葉を無視すれば背中に書いた文字は「アホ」じゃなくて「すき」になるというわけです。
わたしは百合漫画として読み解けるとは書きましたが、それが必ずしも正しい解釈であるとは思っていません。
そもそもこの漫画における「正しい解釈」って何?って話なんですけど。それを「作者が意図した物語の魅せ方」だとするのなら、百合漫画的解釈は決してそれには当てはまらないでしょう。当てはまらないよね……当てはまらないよな!?
だけどそういうことを邪推してみるのは、この漫画の意図するところかもなあと思ったので、そういうことをしてみました。
『潮が舞い子が舞い』は、読者が断片的な日常の一幕から、キャラクターの人格やそこから派生する人との関わり方を汲み取って、勝手に人間関係を脳内で構築して物語が生まれる作品だと思っています。
それの最たるものが109話の曖昧な美しさであり、その曖昧な美しさは他の場面にも適応できる可能性がある。
そういった実験でした。侮辱的な意図はないのでご了承ください。
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これは関係ないようで関係ある話なのですが、わたしは日常系というジャンル定義がガチで嫌いです。
誤解ないように言うと、深く考えずに「日常系」という曖昧な言葉を使って、作品をジャンル分けしてやろうというオタクの軽率さが嫌いです。
と言うのも、日常系のジャンル定義って曖昧じゃないですか? 何を満たせば日常系足りえるんですか? もしくは何かを満たさないと日常系に分類されるんですか? そういう曖昧な言葉を持ち出して、この作品が日常系に該当する!と定義付けする姿勢は気持ち悪くないですか?
まあオタクなんて、世間から「キモイ」というレッテルを無条件に貼られてキレ散らかしている癖に、自身も他者にレッテル貼りして悪びれずにいるカス共なので、こんなことは今に始まった話ではないのですが。
ていうかわたしがこんなにも「日常系」という言葉に嫌悪感を抱くのは、他人の使うこの言葉を蔑称と捉えているからなんですよね。日常系って「物語に起伏がなくてつまらない作品どすなあ」という意味の京言葉じゃないんですか!? 『ご注文はうさぎですか?』が日常系ってそういうことが言いたいんじゃないんですか!? わたしって被害妄想が酷いんかなあ!? おい! 笑ってんだろ!?
そういう感じで「日常系」という言葉については悩む機会が多いので、自分だけの独自のジャンル定義が誕生しています。 あくまで通説的ではない自分の中の話なのでご容赦ください。
個人的な「日常系」の定義としては、ハレとケの「ケ」を写実的に描写し、「ケ」の中に潜んだ連続性を掬い上げる作品群です。何言ってるか分かりますか?
例えばわたしが、学校に行く前にコンビニに寄って珈琲を買います。クラスメイトのA子さんも同じ銘柄の珈琲を飲んでいました。次の日のわたしはサイダーを買いました。A子さんも同じサイダーを飲んでいました。「同じサイダーじゃん」ここでようやくわたしがA子さんに話しかけます。「ほんとだ。奇遇じゃん」A子さんが答えます。「実は昨日も同じ珈琲飲んでたんだよ」「マジで?笑 おもろ」次の日、わたしは紅茶を買います。A子さんは2日前と同じ珈琲を飲んでいました。
以上です。これがわたしの定義する日常系なんですよ。ガチでおもんないですか? おもろいだろ。
ケの日々には何らかの規則性や連続性があり、それらの点と点を取り沙汰してみるとなんか物語っぽいよね笑 というジャンル。
そんな個人的定義の日常系に『潮が舞い子が舞い』は当てはまると感じた、ということが言いたかった。
結局のところ関係性にしろジャンル分けにしろ、言葉で分類する意味がどれほどあるのでしょうか?
『名探偵コナン』はミステリーですか? アクションですか?
傘木希美と鎧塚みぞれは親友ですか? 部活仲間ですか?
百合ってどういう意味ですか? 『進撃の巨人』は百合漫画ですか? 『おねロリキャバクラ』はSF漫画ですか?
井芹仁菜と安和すばるはバンド仲間ですか? セフレですか?
だから。私はすばるちゃんとバンド仲間として上手くやっていきたいし、セックスだってしたい。私は歌を歌うのと同じ口ですばるちゃんに愛を叫びたい。ライブが終わった倦怠感の中ですばるちゃんの身体を触っていたい。それっていけないことなの? なんで? なんでバンド仲間がセフレじゃダメなの!?
あーもう! この性欲モンスター!
……
………………
~fin.~
ちなみに個人的な「日常系」の定義に含まれる他作品としては、『GJ部』や『ゆゆ式』等が挙げられます。特に『ゆゆ式』の会話の写実性には尊敬の念さえあります(わたしが『ゆゆ式』みたいな会話をする学生生活をたまたま送っていただけの可能性はある。であれば、やっぱりジャンルの定義付けなんて無意味かもしれない)。